斬鬼は傷だらけの体に鞭を打って飛びのいた。
先ほどとは打って変わって完全な臨戦態勢になっている閻魔に、反射的に体が動いた。
さっきまで、負ける気などしていなかった。本気で閻魔大王なんてこんなものか、と思っていた。
しかしその自分の驕りも無理も無いものだと感じた。今目の前に立っているものは先ほどまでのものではない。紛れも無く「人の形をしているだけの怪物」である。怪物などと言う陳腐な言葉では形容できない。
全てを超越した、まさに、閻魔大王。



「壱の獄」
静かにそう呟くと、閻魔は手の甲を頭上に掲げた。手の中に黒い火炎が生まれ、何かを燃やしているようにぶすぶすと音を立てて消える。 火の消えた手の中には一枚の符が残っていた。
そのままその手を斬鬼の方へ向け、見えない力によって符は高速で発射された。逃げる間もなくそれは斬鬼の腹にぴたりと張り付いた。
「等活」
閻魔が唱えると、符の貼られたところから深い斬り傷が放射線状に全身へ走った。一斉に鮮血が吹き出し、斬鬼は絶叫した。
「ぐぁぁぁぁぁっ!」
激痛に地に膝をつく。意識を失いそうな痛みを堪えていると、どこからか涼風が舞い込んできた。それが体を包み込んで消えてしまうと、数秒前には全身を走っていた傷が痛みと共に全て綺麗に消えていた。
「何だこれは……?!」
訳が分からず混乱するも、符は依然として腹に張り付いたままだ。
その姿を見て、閻魔の口角がすっと上がる。
「がっ……ああああぁぁあぁああ!」
完全に油断をしていたところに、再びさっきの傷が新しく浮き上がった。もちろん、激痛も全く同じものが襲う。
「いくら体を裂かれても、涼風が吹くたびにその体は元の状態に等しく蘇る」
閻魔は無表情で続けた。
「故に『等活』」
既にこの時点で満身創痍の斬鬼は、意地でかろうじて姿勢を保ちながら凄まじい形相で閻魔を睨んだ。
「さすが、趣味が最悪でいらっしゃる」
「これは俺の術の中で最下等にあたる」
斬鬼の表情から一切の強がりが消えた。
「『八獄道』は、あと七つ」

閻魔の姿がそこから消えた。我に返って辺りを見回すが、次の瞬間には背後に閻魔が現れていた。
「弐の獄」
慌てて振り返る前に、閻魔は斬鬼の背中に二枚目の符をべたりと貼り付ける。
「黒縄」
符の貼られたところから肉を切り裂いて鉄製の縄が飛び出した。
「ぐぅっ……!」
激痛と大量の出血に足をふらつかせるのもつかの間、無数の縄は灼熱を帯び、全身に食い込んで縛り上げた。
「あああぁぁぅああああ!!」
圧迫される痛みと刺すような熱さに気が狂いそうである。
「そんなに叫ぶと喉が潰れるよ」
他人事のように淡々と言ってのけると、斬鬼の背の符が炎に包まれ燃え尽きた。同時に鉄縄も消える。風に乗るように体を浮き上がらせ間合いを取ると、三枚目の符を取り出して一方の手で印を結ぶ。
「参の獄 衆合」
突然頭上をいくつもの巨大な岩石が埋め尽くし、その全てが斬鬼の上に降り注ぐ。俊足で逃げようにも範囲が広すぎる。斬鬼は簡単に地獄岩の大群の餌食となった。
「がっ、はっ……!」
おびただしい数の岩が肉を裂き、骨を砕く。斬鬼にはもはや叫ぶ力も残されていない。しかしなまじ頑丈な鬼の体はなかなか死を迎えなかった。
ふう、と閻魔がため息をつく。
「早くその体から出て行ってくれないかな。じゃないと今に木っ端微塵になっちゃうよ」
するとかろうじて膝を起こしていた斬鬼の体が糸を切ったように崩れ、中から巨大な無数の邪気が抜け出てきた。絶叫しながら憤怒の形相で、不安定な形をした暗黒の邪神達が閻魔めがけて一直線に突っ込んでくる。閻魔は満足げに笑った。
「おいでなすった」
軽い手つきで四枚目の符を指に挟むと大きく構えて待ち受ける。
『殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス』
耳を塞ぎたくなるような絶叫と轟音で彼らは叫びながら閻魔を呪い、襲い掛かった。
「うるさいよ」
ぱしん、と小気味のいい音がして邪神達の中心に札が貼りついた。元気のよかった邪神達が嘘のようにぴくりとも動けなくなる。

「四の獄 叫喚」

閻魔の深く低い声が空間に染み渡り、邪神の末路を宣告した。
一斉に周囲を埋め尽くした正真正銘の地獄の業火に焼かれ、邪神共は声にならない断末魔を上げながら焼け焦げて塵となった。

煙の最後の一筋が消えるのを見届けてから、閻魔は足元に転がった気を失っている斬鬼を見下ろした。
物言わぬ体。しかし死んではいない。あと一歩邪神が抜け出るのが遅ければ魂ごと消し飛んでいたのだが。
閻魔は冷たい笑みを浮かべながら膝を折り、斬鬼のくすんだ金の髪に触れた。


「目覚めるまでのしばしの休息か」



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