ぼやけた視界の中、斬鬼は目を覚ました。
横たわる肌に触れているのは冷たい灰色の石の床。
軋む体を無理矢理起こすと、そこはさっきまでの漆黒の結界の中ではなかった。
どこだここは。
霞む目を乱暴にこすり、斬鬼は舌打ちをした。

「おはよう」

声は背後からした。慌てて振り返ると閻魔が足を組んで椅子に座っていた。その姿を捉えると、斬鬼は奥歯を噛みしめ憎しみを露にした。
「ここは閻魔庁の外れの塔だよ」
ぎし、と椅子の軋む音を立てて閻魔は立ち上がる。
「あの結界ずっと維持してるの疲れるんだよね」
斬鬼は眉を強く寄せた。
そうだ、この男はあの巨大で強固な結界を維持しながらあんな高等術を連発していた。 この男こそとんでもない化け物なのである。
「わざわざこんなところに連れてきてどうするつもりだ。ゆっくり嬲りものにでもするのか」
斬鬼は自分の鎖骨の辺りに張り付いている一枚の呪符を忌々しげに睨み付けた。上体を起こせはしたが、立つことはできない。
「どうせこいつのせいで俺は満足に動けやしないんだろ」
「もうすっかり元気みたいだね」
閻魔はにこりと微笑んでゆっくりと歩みを進めてくる。塔というわりには広いこの最上階だが、灰色一色の壁や床、天井が息苦しい圧迫感を醸していた。
言われてみて、自分の体を改めて眺める。結界の中でずたずたにされたはずの体の傷が一つ残らず消えている。痛みすらない。
「これもさっきの涼風ってやつかよ」
低い声で凄んでみせても、閻魔は答えない。無言で、しかし薄い笑みをたたえたまま近づいてくる閻魔は、悔しいことに心底恐ろしく見えた。
「まな板の上の鯉なのに、命乞い一つしない」
ようやく閻魔はポツリとこぼした。斬鬼が片方の眉を上げる。
「何だと」
「潔くて良いね」
「観念して大人しくしてるとでも思ってんのか」
「違うの?」
表情を変えずに閻魔は首をかしげた。斬鬼が喉でくつくつと笑う。
「ふざけんなよ。俺はどんな状況になろうとおとなしく身を差し出したりしねえからな。今だっててめえを噛み砕きたくてしょうがねえんだ」
「そう」
閻魔は動けない斬鬼の前に膝をついた。
「大丈夫、もうあんな酷いことはしないよ」
斬鬼は依然閻魔を憤怒の形相で睨みつけている。言葉の一文字たりとも信用していない様子だ。
「ただね」
そう言うと、斬鬼の体がびしりと強張り動かなくなった。身じろぎすらできない。また何かの術か。斬鬼は忌々しげに歯を軋ませた。
「この物騒なもの、ちょっといじらせてもらうよ」
長く伸びた斬鬼の角の先端に手を触れる。斬鬼がはっと息を飲むと、閻魔の触れたところから鉄が火に炙られたように角が溶け出した。
「うぐっ………あぁああぁぁ!」
内側から来る経験したことの無い痛みが斬鬼の頭を苛んだ。溶けた角は溶岩のようにどろどろと床に滑り落ちていく。
斬鬼は全身に脂汗をかいて苦しみ悶えながら小刻みに震えていた。両方の角を溶かし終えると、それらは薬指ほどの長さになってしまっていた。
斬鬼は焦点の合わない目をしながらがっくりと首を落とした。しかし、そこから下は動かないので緊張から逃れられない。
「まだまだ。もう少し我慢して」
息絶え絶えの斬鬼などお構いなしに、閻魔は斬鬼のうつむいた顎を掴んで上へ向かせ、無理やり口を開かせて長く鋭い牙をつまんだ。そして先ほどの角と同じように、触ったところから牙が溶け出した。
「ぐぁっ……あっ………!」
くぐもった声を上げながら斬鬼は再び辛苦を舐めさせられる羽目になった。牙が短くなったのを見届けると、閻魔はようやく手を離して解放した。
「これでよし。……大丈夫?」
ついでのようにそう言われ、斬鬼は怒りをあらわにして罵る。
「ふざけんなてめえ……こんなことしてどうするつもりだ」
「屈辱だっただろう」
口元だけで笑って閻魔は懐に手を差し入れた。
「あれだけ複数の邪神やら妖怪に、しかも長いこととり憑かれると、引っこ抜いても本体に意思が残っちゃうんだよ」
数枚の呪符が閻魔の長い指に挟まって現れた。その向こうで閻魔は笑っている。

「だから斬鬼封印にはその強情な自我の崩壊が絶対条件なんだ」

斬鬼は言葉を失った。閻魔の言っていることは正直意味がわからない。
ただこの先恐ろしい悪夢を見ることになる、という予想は容易にできた。
「本当は面倒くさいから滅多にやらないんだけど」
閻魔がくい、と指を動かすと、斬鬼の意思を無視して斬鬼の両手首が閻魔の前に伸びてきた。そこに先の呪符を置くと独りでに呪符が手首に巻きついてしっかりと拘束した。斬鬼は目を剥いた。
「何を」
「死なせもせず、傷つけもせず、かつ手っ取り早く効果的に崩すには」
閻魔は言葉を紡ぎながら斬鬼の胸元の呪符に触れた。すると斬鬼の全身の力が抜け、そのまま後ろに仰向けに倒れた。拘束された手首は頭の上というなんとも無防備な体勢になる。
「これが一番いいんだよね」
閻魔の低い声は、まるで死の宣告のように冷たい音だった。
斬鬼は異様な空気を感じ取って瞳に焦りを宿す。
「何をした」
「四肢の自由を封じさせてもらった。力入んないでしょ。でも」
閻魔の指が斬鬼の首筋をつう、と辿った。
「感覚はちゃんと残しておいたから」
斬鬼の全身をぞわりと悪寒が走った。すると頭上に巻物が一つどこからとなく現れた。独りでに開くと、書かれた文字が虫のように動いて紙から飛び出す。それらが一度に斬鬼の体に降り注いだ。
また何かの術で苦しめられるのかと思いきや、文字達は斬鬼の体に張り付き、そのまま皮膚の下に沈んでいった。
「な……?!」
何が起きたのかわからない斬鬼は、直後になんとも言いようの無い感覚に襲われた。体の中で、文字が蠢いている。そしてだんだんとそれらは熱を持ち、斬鬼の全身の体温をじわりと上げた。
いや、体温を上げたわけではない。そういう意味ではなく、とにかく体が、
「熱いだろう」
朦朧とし始めた頭で斬鬼はどうにか閻魔の言葉を聞き取った。閻魔の指が斬鬼の顎に沿って滑っていく。たったそれだけのことなのに、斬鬼はびくりと肩を震わせた。触れられた皮膚が妙に熱い。
「何を、しやがった……!」
「すぐにわかる」
無造作に転がされた斬鬼の体に、閻魔はゆっくりと覆いかぶさった。とろりとした金の瞳を満足げに見つめると、小さくなった牙がのぞく半開きの唇にごく自然な所作で口付けた。
「!」
面食らった斬鬼は重かったまぶたを反射的に押し上げた。置かれている状況が信じられず、何の抵抗もすることができない。いや、元々抵抗する自由など持ってはいないのだが。
ぬるりと生暖かい感触が口の中を這った。舌だ。そう認識したときにはすでにそれはゆるい歯列の壁を割った後だった。拒もうにも、力が入らない。
どうにかして逃れようにも顎を僅かに揺することしか出来ない。それすらもつかの間の話で、すぐに閻魔の手が斬鬼の頬に伸びて固定した。
「ん、う……っ!」
斬鬼は奇妙な感覚に襲われていた。ただ口づけを受けているだけなのに、そこから全てを奪い去られるような感じがした。
くちゅ、という唾液の混ざる音がする。上手く呼吸が出来ない。たまらず身じろぎすると、
「っ……!」
あろうことか舌を甘噛みされた。微弱な痛みと大半を占める快感が電流のように走る。

快感?
冗談じゃない!

ようやく唇が離れた。斬鬼は酸素を求めるように大きく息を吸い込んだ。
「正気か貴様……!」
必死に凄んで見せても、顔にすら上手く力をこめることが出来ない。紅潮した頬と潤んでしまった瞳では少しの恐ろしさも作り出せなかった。
「されるがままとはつまらない。……ああ力が入らないのか」
「人の話を聞け下衆が……っ」
喉から絞り出した声で呻くように言うと、閻魔の唇が斬鬼の耳元に寄せられた。
『舌を使ってごらん』
閻魔が再び斬鬼の唇を貪る。一瞬頬が強張ったが、先の囁きが呪文のように頭の中を支配する。
本当に呪文だったかのように、斬鬼は侵入してきた閻魔の舌を自ら迎え入れてしまった。
角度を変えて深く口付けられるたびに絡まる舌と舌。頭のどこかで何度も「正気に戻れ」と冷静な自分が叫んでいたが、その度に耳から流れ込んできた閻魔の低い囁きが繰り返される。
緩やかで甘やかな快楽が頭の中身を溶かしそうである。そう感じた頃には斬鬼の舌は完全に自らの意思で閻魔を求めていた。

意思がどんどん奪われていく。
反抗も拒絶も嫌悪も、何もかも。

再び唇が離れると、斬鬼は湿った息を吐き出した。
しかし、その瞬間に僅かによみがえった意識があわててそれをかき消す。再び生気の宿った金の目は呪うように閻魔をにらみ上げる。
「まだ元気そうだね。さすが鬼だ」
「ふざけんなよ糞が……っ、こんなことするくらいならとっとと殺せ……!」
「面白い子だ」
冷淡な声で述べると、無防備な乳首をきゅっと強めにつまんだ。
「ひ……っ!」
思わず上がった引きつった声を自分のものとは思えなかった。
「屈してしまった方が楽なのに、隙を突いて逆らおうとするんだもの」
「う、あ、あっ……!」
片方だけを擦られびくびくと肩が鳴く。それはあっという間に充血し、はしたないほどの赤さを見せた。同時に走る痛いくらいの快感。頭も一緒にどうにかなりそうである。

これはさっきの妙な文字のせいだ。
俺の意思などでは決して無い。
逆らえ、拒め、ねじ伏せろ。

理性が必死に体の奥底で叫んでいる。しかし無情にも聞こえてくる、耳を塞ぎたくなるような自分の嬌声。
ありえない、こんなことは!



呻きながら頭を横に振ると、閻魔がそれに気づいた。
「片方だけじゃ嫌か」
「ちが、違う……よせ!」
斬鬼の訴えも悲しいほど押さえつけられ、閻魔はもう片方を口に含んだ。
「はっ……!」
たまらず背中が反る。だんだんと早く、浅くなっていく呼吸が疎ましい。
もう本当に勘弁してくれ。思わずそう懇願しそうになった時、閻魔の舌が動いた。口の中で転がされ、舌で押しつぶされ、攻撃は間髪が無い。容赦も無い。
「やめ、嫌だっ……やめろ!」
涙声のような自分の声に吐き気がした。何とかして快楽から逃れようと力の入らない、拘束された手首を揺する。しかしその動きすら胸の刺激を助長した。
火がついたかのように熱いそれに、閻魔は鋭く歯を立てた。
「ひっ!」
瞬間、斬鬼の上半身に電流がほとばしる。痙攣したように体中がびくびくと軋む。意識が飛びそうなほどの衝撃で、気が狂いそうだった。
まだ小刻みに震えている斬鬼の体を眺め、閻魔は斬鬼の首筋を強く吸った。ぴりっとした痛みが走り、そこに紅い鬱血が咲く。
「ここまでは肩慣らし」
はあはあと荒い息を胸でしながら、斬鬼は虚ろな目で閻魔をぼんやりと見上げた。
「さあ、次いこうか」
閻魔は自らの唇を舐め、意地の悪い笑みを浮かべた。



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