閻魔庁から続いている蓮池。 白く薄い霧が常にかかったその池は、乳白色でありながら汚らしさは微塵も感じられない。 水に浮かぶ薄桃や白の蓮の群れは、大きいものから小さいものまで。 空間がどこまで続いているのかもわからない。息を吸い込むと少し眠たくなる。 そこは魂の眠る場所。 ざらりと発生した黒い霧が失せ、代わりに斬鬼を抱きかかえた閻魔が現れた。疲れ切った顔で眠っている斬鬼を一瞥すると、閻魔は無表情のまま池へと足を進めた。 つま先が水に入り、飛沫を上げる。気にせずそのまま歩を進め、ざぶざぶと池の中心へと歩いていった。 真ん中へ行くほど坂になっているようで、中心へたどり着く頃には完全に足場が消え、二つの体は池の底へ沈んでいた。 水の中なのにもかかわらず、呼吸にはちっとも困らない。水中であって水中ではないようだ。 白くぼやけたその中で、閻魔は腕を解いて斬鬼の体を開放した。意識の無い体はふわふわと浮いている。 閻魔は顔の前に手を持っていき、ゆっくりと目を閉じる。すると指先の皮膚が少しだけ裂け、そこから血があふれ出した。 もう一方の手で斬鬼の肩を引き寄せると、斬鬼の額に手を当てた。斬鬼の目がうっすらと開いたが、その目はぼんやりとしたままだった。 閻魔は先ほど切った指先を斬鬼の眼球へと持っていく。水晶体に指先が触れると、流れ出る血が斬鬼の目に入り込む。もう片方の目にも、同じように。 金色だった斬鬼の目がだんだんと赤みを帯びてきた。徐々に色は濃くなっていき、最後には閻魔の目と同じ真紅となった。 閻魔はそれを見届けると、斬鬼の額に手を触れて静かに口を開いた。 『汝の血となり肉となる この血の紅さを忘れるな 我が血は汝の中で生き 汝の全てを支配する その魂続く限り 我の声のみを聞き 我の為に存在せよ』 一度口を閉じると、閻魔は目を細めて赤目の鬼を眺めた。思い立って、その頬に沿って手を添えてみる。褐色のその肌は滑らかだった。 一呼吸置き、閻魔は最後の口上を口にした。 『そして その魂続く限り 我は汝の全てを守る』 白い光が、閻魔の指先から斬鬼の額へと飲み込まれていく。光が完全に消えると同時に、斬鬼の瞼がゆっくりと落ちた。 その姿をしばし眺めていた閻魔だったが、不意に腕を組んでいつもの気の抜けた表情へ戻った。 「よーし契約完了。ああ疲れた」 んん、と小さく唸って伸びをすると、「あ」という間抜けな声を上げた。 「しまった、名前どうしよう。すっかり忘れてた」 契約をするのに名前を与えないのでは話にならない。とは言うものの、言っていることは焦っているように聞こえるが顔はちっとも困っていない様子である。 閻魔が面倒くさそうに眉をひそめて首をねじった。 「参ったな、ぱっと思いつかない。うーん、いいや、後で変えられるし」 とうとう諦めた閻魔は再び眠ってしまった斬鬼の顔をまじまじと見てうなずいた。 「じゃあ鬼だから鬼男君ね。よし決まった、おしまいおしまい」 言い終えると、頭上にあった蓮の花が水底へと降りてきた。茎が斬鬼の体に絡まり、まるで花の一部になってしまったかのような姿になった。 実際は蓮の大群に縛られているのだが、なぜだか蓮の花に守られているように見える。 最後に閻魔は懐から呪符を取り出した。それを斬鬼の首元に静かに貼り付ける。 「斬鬼封印」 物騒な呪文とは裏腹に、斬鬼は蓮達と共に暖かな光に包まれていった。 閻魔の表情も、少し笑っているような穏やかなものだった。 「しばし眠れ」 蓮池から戻るところで、閻魔は黒髪の青年と出くわした。泰山府君である。閻魔の姿を認めると、泰山は目を見張った。 「大王」 「おや泰山。久しぶり」 にこやかに微笑んでひらひらと手を振ると、泰山はいきなりかしこまってその場に跪いた。 「此度は私の力の無さ故に大王の手を煩わせてしまったこと、深く悔いております。本当に申し訳ありませんでした」 頭を垂れる泰山を見て、閻魔は呆れた表情をしながらその肩を軽く叩いて促した。 「おいおい廊下のど真ん中で座り込むもんじゃないよ。ほら立ちなさい」 「しかし、本来斬鬼封印など大王の仕事ではありません」 「いいのいいの、あれは確かに君じゃ無理だったんだから」 そう言うと、泰山の表情はますます沈鬱になった。閻魔は肩をすくめてため息をつく。 「あのね泰山。無理なもんは無理なんだからしょうがないだろ。出来る人がうまく収められればそれでいいんだよ、わかった?」 「…………はい」 「よし、いい子。なら立ちなさい」 閻魔が再び促すと、泰山はまだどこか納得していないような面持ちでゆっくりと立ち上がった。 気まずさを断ち切るため、泰山は重い唇を上げる。 「ずいぶん長丁場だったようですが……それほど手こずられたのですか」 閻魔が前髪をかき上げる。 「いんや。絶対再発しないようにって念入りにやったら、こんな時間になっちゃった」 泰山は形のいい蒼い目を丸くした。 「封印されたのではないのですか?」 「したよ。でも落ち着いたら起こす」 「何故そんな事を」 自分があれほど手を焼いたものである。いくら封印したといっても起こしてしまったのでは、おちおち寝てなどいられない。 てっきり魂ごと消し去ったものと思っていた泰山の胸からは疑問が溢れるばかりであった。 動揺する泰山を尻目に、閻魔は何でもなさそうな顔してさらりと言った。 「秘書が欲しかったから」 この話のイメージイラストをまつさんから頂きました→コチラ |