フロムブラックマンション―午後九時


帰宅すると、空の缶ビールが一つ玄関に転がっていた。
銀色の鈍い光を発していたそれが、暗い玄関の中でぼんやりと浮かんでいる。僕は開けっ放しのリビングへのドアを目指した。
そして絶句する。フローリングに転がる缶ビールの数は常軌を逸していた。電気をつけていない真っ暗なその場所で、彼はぺったりと床にへたり込んでいた。

「僕のいない時に酒を飲むなと言ったでしょう」

苛立ちを含んだ声で叱ると、彼は亡霊のように振り向いた。からくり人形みたいだ。

「君がいないと寂しくて」

白々しく嘯いて飲みかけの缶を置いた。僕はそれを憎らしげに見る。
「こっちは必死こいてバイトしてるのに、酒に消えていくんなら馬鹿馬鹿しくてやってられない」
「なら早く俺を放り出せばいい」
簡単さ。彼は突き放した笑みを浮かべて僕を面白そうに眺めてそう言った。
「本当に腹の立つ男だな」
「うふふ」
酔っている彼はごろんと床に寝転がった。頭に空き缶が当たって「あいて」と間抜けな声を上げる。
気がつくと、もう彼を怒れなくなっていた。僕は僕自身がとても心配になった。

「いいんだよ、本当に俺を捨てても」

寝転がったままのくぐもった声が聞こえてくる。いや、もうそれは十分な水分を持っていて、今にも決壊しそうな情けない声だった。

「そしたら泣いて泣いて泣いて泣いて補導されてあげる。路上で。そんで警察に聞かれた時、君の名前を出してやる」

僕はゆっくりと彼に近づいた。つま先で蹴っ飛ばしてしまった空き缶がこの場に不似合いな小気味のいい音を出す。彼の背中の前で止まると、しゃがみこんだ。その衣擦れの音を聞いた途端、彼は酔いつぶれているとは思えないほどの俊敏さで起き上がって僕にしがみついた。

「どこにも行かないで」

そう言われると、僕は無条件で彼を抱き返してしまう。
たとえ彼が約束を破っていても。やっておいてと頼んだ洗濯物が山となって丸まってあっても。洗いものが片付いていなくても。見捨てたいほど呆れてしまっても。
酔った人間というのは、死体のようにじっとりと重い。だから僕は懸命に腕に力をこめて支える。

「一人にしないで、ここにいて」

呪文のように、畳みかけるように唱えるのはやめてほしい。そうやってこの人は僕を閉じ込める。

「お願い」

いい大人が涙をぼろぼろ流してみっともなく泣いている。なんと滑稽な光景だろうか。電気をつけていない、濃い黒色のこの部屋の中で。
そうやって泣いてごまかしながら、この人は毎日のように言うのだ。

一緒に死ねと。

一人にするなというのは、つまりそういうことだから。


「わかりましたから、夕飯の支度をさせてください」
「いらない。気持ち悪い」
「少しでいいから食べなきゃ駄目。でなけりゃコンビニに買いに行っちゃいますよ」
「それはダメ」
「なら放して」
赤ん坊を宥めすかすように囁くと、彼はゆるゆると腕の拘束を解いた。一気に疲労が押し寄せ、重いため息をつきそうになって、飲みこむ。そんなことをすればこの人は十中八九号泣を再開する。


大きい子どもである彼と、小さい子どもである僕は、暗くてしみったれたマンションの一室で暮らしている。
三番目の住人は、この家で一番元気な、良い緑色をしたポトス。
彼の、お気に入り。




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