フロムブラックマンション―午後十時の電話


午後十時、鳴り響いた電話の主は母だった。

「元気にしてる?ちゃんと食べてる?」

当たり障りのない、母親としてごく自然な、息子の体を案ずる言葉だった。僕は目を閉じて頷く。
「大丈夫だよ。俺のことは、ほんと、いいから」
自分で言いながら苦笑してしまう。どこが大丈夫でどこがいいのか。問題ないことなど何一つないのに。
母さん、あなたの息子は全くもって不健康です。
取り留めのない話をしてその場を繋ぐ。別に母と話すのが煩わしいわけではない。僕もまだまだ子供だ。久し振りに聞く電話越しの母の声に確かに安心していた。
僕が落ち着いて母と話せないのは、無論、背後のソファで居眠りをしている存在が原因である。
「誰?」
突然後ろから抱きすくめられて、僕は受話器を取り落としそうになった。同時に、息も飲んだ。驚いた母が訪ねてくる。
「誰か来てるの?」
僕はかろうじて「うん」と返した。母の質問は止まらない。
「こんな時間に?」
「今日、泊めるんだ」
少し沈黙した後、落とした声で母は言った。
「……女の子?」
「男だよ、友達友達。何の心配してるんだよ」
耳元で彼がくすくすと忍び笑いをしている。少しも反応できなかった。さっきまでソファで眠っていたのに。この人は足音を立てずに歩くことができる。僕は少し苛々した。

ようやく母が諦めたので電話を切ると、受話器を置いた途端僕は彼の脇腹に軽く肘を入れた。
「どうして喋るんですか」
「どうして?誰からか気になったからだよ」
僕は眉を深く寄せる。
「母からだってわかってるくせにわざわざ言うのは意地が悪い」
「ふふ、この声を女の子と勘違いするなんて、愉快なお母さん」
また人の話を聞いていない。つくづく腹の立つ男だ。四六時中酔っている。
彼の声は艶やかに低く響く。女のそれとは似ても似つかない。確かに僕の母は愉快だ。
僕の首筋に唇を寄せながら、依然くすくす笑いを止めずに彼は続けた。
「今日泊める?友達だって?酷い冗談だ」
「うるさい」
されるがままで、僕は悪態をつく。そんなことは僕が一番わかっているのだから。
「息子が男を連れ込んでるなんて知ったら、お母さんどうなっちゃうかね」
「死にます」
彼が軽快に笑った。僕の即答が可笑しかったのだろう。死にはしないだろうが、恐らく倒れる。思考するのが面倒になって、そんなことを無責任に思った。

静かに昂る自身の体が気持ち悪くて、首に回された彼の腕におもむろに触れた。彼の口角がにやりと音を立てる。
「ねえ、どうして俺には敬語なの」
「いいでしょ別に」
「俺は君の先輩でもなければ先生でもない、上司でもないのに」
「何となくですよ」
「俺にだけ『僕』って言うのは?」
「うるさい。もういいから、早く抱いてください」
僕が彼の腕を抱き締めるようにすると、彼は喉の奥で低く笑った。
「Bitch.」
絹のような発音で彼は僕を罵る。
僕は彼を何者か知らないが、いくつかの言語を操れるということは知っている。それも、恐ろしく上手い。
「君みたいな真っ直ぐな子がスラングを喋ったら素敵だろうな」
僕のどこが真っ直ぐなのか。問いただす前に僕はぼそりと口にしていた。

「Fuck.」

僕自身、意味をよくわかっていないこの言葉。彼が僕に教えた、ろくでもない言葉。
彼は僕の耳を齧ると、僕のへその辺りで指を組んだ。
「勃ちそうだ」
僕は首を捩じって後ろを向き、彼のキスを誘う。彼は応えてくれる。慈しむように僕の唇を食むのだ。


『Oh, my god.』
アメリカのドキュメンタリを見た時、現地の人々が本当にこう言っていて少し驚いたのを思い出した。僕にしてみれば、この言葉は何だか冗談のように聞こえていたから。
だけど神様が本当にいるのならば、どうか僕を止めてください。


夜は更ける。
僕は溶ける。
彼の腕の中へ。




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