フロムブラックマンション―午後四時半過ぎ 彼は少しずつ変化していった。 夜中突然起きて、一時間ほどベッドの上に座ってぼうっとしていたり、何かに追い立てられるように僕を抱きしめてみたり、少し乱暴に抱いてみたり、浅いキスを繰り返したり。 一見いつもとやってることが変わらないように見えて、それらは確実に以前と違った。 彼の飲酒の量は、目に見えて減った。 補充しても結局余ってしまうので、僕はとうとう酒を買ってくることを止めた。冷蔵庫に残っている缶ビールにうんざりしながら。 そしていつも目に付いてしまう、彼の机の上の、封を切られたあのエアメール。 ある夜、バイトから帰ってくると彼は玄関まで飛んできて、靴すら脱いでいない僕に抱きついた。涙声で強く縋りついてきた。 「遅い」 僕は呆然としながら答える。 「すみません」 「俺を一人にしないで。君がいないと俺はダメなんだ」 締め上げるようにぎゅうぎゅう抱きしめられ、僕は小さく呻き声を上げた。彼の耳にそれは聞こえていない。 額、こめかみ、頬、鼻先、瞼、顎、唇。顔のパーツというパーツに口付けられる。されるがままでいながらも、僕は恐ろしくてたまらなかった。 彼から酒の匂いが一切しない。 代わりに漂う濃い狂気の香り。 「今すぐしたい」 「シャワーくらい浴びさせてくださいよ」 「じゃあ風呂で」 「嫌です」 せがむ彼を、僕はわざと拒む。 お願い、もっと僕を求めて。欲して。僕無しではいられない体になってください。 僕共々狂気にまみれて、二人して立てなくなってしまえばいい。 風呂の湯の跳ねるやかましい音を聞きながら、僕は彼に抱かれている。タイルの壁に這いつくばるように、みっともなく。セックスなんていうものは、総じてみっともないものだ。 散々するしないの口論を楽しんだ後、僕は結局風呂場で交わることを承諾した。拒絶なんて元よりないのだから、当たり前の結果だ。それは彼もわかっている。 湯の温度にのぼせそうになりながら激しく揺さぶられている最中も、僕はくだらない考え事に苛まれていた。 その女は透けるような美しい金の髪をしているのだろうか。こんな人工的な金髪でなく。 その女は陶器のように白い肌をしているのだろうか。こんな浅黒い肌でなく。 その女の腰は細く、胸は豊かに膨らんでいるのだろうか。こんな無骨で凹凸のない体でなく。 考え出すときりがない。比べたって仕方がないのに。 酷く惨めな気持ちになり、僕は冷たいタイルに頬を押しつけながら少しだけ泣いた。きっと彼は気づいていない。 こんな時でも、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう。突き上げられる快感に目が回る。何度も膝が崩れそうになったけれど、彼の熱が欲しくて僕の心臓がそれを許さない。 こんなに最高のセックスが出来るのに。満たされるのに。どうして彼は少しずつ出ていく準備を進めているのだろう。 水色のタイルを白濁で汚すと、僕はとても久し振りに意識を失った。イく時に気を失うのは稀だ。 もうそこから先は、覚えていない。 放課後、僕はとても疲弊していた。 使われていない旧校舎の、一番端の教室に来てしまうほどに。 ここに人は来ない。本当に、来ない。僕には妙な確信があった。 そこに一歩足を踏み入れると、一瞬にして膝が落ちた。とっさに両手を前につく。既に涙は堰を切ったように溢れ出していた。 埃っぽい、大して日の当らない、椅子と机ばかりがごちゃごちゃと置かれているその場所で、僕は泣いた。 もう疲れた。彼を恨むのも、フランス女を恨むのも、何もかも。 どうして出て行こうとするのだろう。いいじゃないか、あの黒いマンションで、二人で暮らせば。 何の不自由がある?好きな時に抱き合ってキスをしてセックスをして適当な会話をして。ぐずぐずになった糸のようにもつれあっていればいいじゃないか。 彼がいつもあの場所にいるせいで、僕は泣くことができない。何が悲しくて、たった一人で、こんな場所で泣かなくてはならないのだろう。僕が独りで泣いていることなど、彼は知らないのに。 どこにも行かないで 一人にしないで、ここにいて お願い 理不尽だ。 たった一人で泣いている時でさえ、僕はこれらの叫びを口にすることができない。 彼は平気で僕にそう言っているのに。 言えるわけがない。 どちらにしろ彼はあそこから出ていかなくてはならない。 日の光を浴びなければならない。 恋人の元に戻らなければならない。 彼がここを出て行くと言ったならば、微笑しながら「よかった」と喜ばなくてはならない。彼は健康だ、と。 何だこれは。 『must』ばっかりじゃないか。 僕は女々しく情けなく泣き続けた。 マンションに帰る頃には、涙が枯れ果てているように。あの場所で一滴も零さぬように。 ぐったりとしている体を持ち上げ、僕は時間の止まった、寂れた教室を出て行く。 そして夕日の中を通って、彼の待つブラックマンションへ帰っていく。 |