唐突に意識が戻り、体をびくりと震わせて貴央は目を見開いた。 何故か列に並んでいた。老若男女がひしめき合っていて、慌てて前後を見比べると、それはとても長い列になっていた。 訳が分からなかった。何だって突然こんなところに来てしまったのだろう。 辺りを見回すと霧が立ち込めていて、はっきりとは見えないがだだっ広いところにいるらしく、遠くに微かに山のようなものが見えた。知らない匂いがする。 貴央は急に青ざめて前に並んでいる中年の女に話しかけた。 「すみません、ここどこですか」 変な質問だ、と思う余裕もなく焦った調子で言ったが、女は振り返りもしなかった。 「あの」 聞こえなかったのかと思い肩を軽く叩いたが、鬱陶しそうに跳ねのけられてしまった。 面食らった貴央はそのまま後ろを振り返った。中学生くらいの、学生服を着た少女が怯えた様子で立っている。 「あの、ここがどこかわかる?」 貴央が尋ねると、少女は首を横に振って不安そうに眉を寄せた。 「私もわからなくて、あの、ごめんなさい」 貴央は額を押さえて俯いた。どうすればいいのかまるでわからない。一番最近の記憶を思い出そうとしても、何故かぼんやりしていて出てこない。意識はこんなにもはっきりしているのに。 もう一度前を見ると、無数の人が蠢きながら延々と列を作っていた。その光景に、貴央は恐怖を感じずにはいられなかった。何もかもが異様である。 パニックに陥っていると、列の横から人が歩いてくるのが見えた。まっすぐ貴央に向かって歩いてくる。 段々と近づいてきて姿が確認できるようになると、白い髪をした自分と同じ年くらいの男だということがわかった。中国か日本か、どこの物か上手く特定できないような着物を纏っている。 その出で立ちにそもそも驚いていたが、男の髪の中にある物を見つけてぎょっとした。角が一本生えているように見える。 まるで意味が分からず、間抜けに口を開けて男を凝視していると、男が貴央に尋ねた。 「茨木貴央さんですか」 貴央は反射的に「はい」と答えていた。男は表情を変えずに続けた。 「あなたは別室で待機していただきます。付いてきてください」 「え?」 貴央の問いを気にも留めず、男はくるりと背を向け元来た道を引き返し始めた。 貴央は少しの間戸惑っていたが、言われた通りに男の後を追った。追いついて隣に立つと、堰を切ったように質問を繰り出す。 「どこなんですかここ。それからあなたは、その」 男は歩みを止めずに、前を向いたまま淡々と答えた。 「ここは死後の国です。私は閻魔庁で働く鬼です」 衝撃的なことをさらりと言われ、一度では上手く飲み込めず「は?」と聞き返してから、貴央はふと自分の服に視線を落とした。スーツを着ているということは仕事に行っていたのだろう。記憶を辿りに辿ると、さっきまで行き止まりだった記憶がようやくその先へ伸びた。 深夜。交差点。トラック。大きな影。 貴央は声にならない叫び声を上げていた。 「あなたは死んだのです。これから閻魔庁の審判場で閻魔大王様に天国か地獄かを審判していただきます」 貴央はがたがたと震えだした。思わず口元を押さえ、立ち止まる。吐き気がしてきたのだ。 少し進んだところで歩みを止めた鬼の男は、小さくため息をついて振り返った。 「大王様のご命令であなたをここで待たせるよう仰せつかりました。どうぞこちらへ」 言われて見上げると、いつの間にか目の前に巨大な建造物がそびえ立っていた。 まだどくどくとうるさい心臓をどうにか抑えると、貴央は鬼の男に恐る恐る尋ねたのだった。 「何で、俺だけ」 「わかりません。大王様のご意志としか」 特に興味もなさそうな顔で、鬼の男は無機質な声で答えた。 扉を開け中に入ると、誰もいない薄暗い廊下を延々と歩かされる。その間貴央は思考しようとしてもまるで進まなかった。頭がちっとも働かない。何もかもが突然すぎて、脳が混乱状態をずっと維持している。 「ここです」 鬼の男の声で貴央は我に返り、顔を上げた。扉を開けると、中は小さな一室になっていて、壁は白く、椅子が一脚置いてあるだけで後は何もなかった。殺風景を絵に描いたような部屋である。 「迎えの者が来るまでここでお待ちください」 それだけ言い残して男が行ってしまおうとしたので、貴央は慌てて呼びとめた。 「待ってください。俺はこれからどうなるんですか」 貴央の上ずって怯えた声を聞いても、男はただ無表情で首を横に振っただけだった。 「わかりません。全ては大王様がお決めになります故」 男は部屋を出ていった。扉の閉まる音が貴央に孤独を突き付ける。 しばらく扉の前で立ち尽くした後、崩れるように椅子に座りこんだ。とりあえず頭を休ませよう。あれこれ考えるのはそれからだ。そう自分に言い聞かせた。 ひとまず眠ろうとしたのに、全身がじわりと熱を持ち、内側から微弱な震えを感じると、目から涙が溢れ出ていることに気付いた。 貴央は両手で顔を覆い、声を押し殺して泣いた。直前まで一緒にいた曽良、松尾を始めとする自分を取り巻く人々の顔が次々と浮かび、最後に母親の顔が現れた。 嗚咽が抑えきれなくなり、貴央は一層激しく泣くのだった。 どうにか涙が干上がり、火照った頭のままぼうっとしていると、扉が開いた。先程の鬼の男だった。 「お待たせしました。大王様がお待ちです」 待ち望んでいた言葉を受け取り、貴央はふらふらと立ち上がった。 さっきと同じように鬼の男の後を覚束ない足取りでひたすら付いていくと、黒い観音開きの重厚な扉の前に辿り着いた。掘りも細かくて美しく、豪奢な造りとなっている。それだけに、得体の知れない近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。 「大王様、お連れ致しました」 鬼の男が高らかに告げると、扉は重そうにぎぎぎ、と音を立てて独りでに開いた。 正面には玉座があり、その傍に上質そうな着物を纏った髪の長い副官らしき男が控えている。 貴央は驚愕し、口を半開きにして目を見開き、その場に石のように固まった。 玉座に座っていた男は白い縁取りをされた黒い着物を着ていた。肩にかかるかかからないかくらいの黒い髪。裾の丈が少し短い白いズボン。一つだけ貴央の記憶と違うのは、その上に黒と白の帽子を被り、中央に『大王』と書かれている事くらいだった。 男は貴央のとてもよく知る人物だった。閻魔大王という、実在することを信じてすらいなかった物であるにもかかわらず。 「久しぶり」 男の声を聞くと、全身に熱が走った。動いた彼の唇に視線を持っていく。忘れもしない、病的なほど白い肌。切れ長の赤い瞳。貴央を安堵させる、低く響く声。 男は微笑で貴央を迎えたが、すぐに表情を曇らせ、痛みを堪えているように目を伏せた。 「だけど、来るのが早過ぎるよ」 七年もの間、狂おしいほどに待ち望んだ男の姿が貴央の目の前にあった。 |