ブルーグレーのマンションの前にたどり着いた貴央は、ポケットから鍵を取り出して階段を上がった。
マンションといっても三階建てで大して大きくもなく、名前から連想する大層なものではない。以前友人を家に呼ぼうと場所を説明した時、なんと形容したらよいものかわからず困ったことを思い出した。
ドアの鍵穴に無造作に突っ込んで回すと、無機質な音と共にドアを開ける。玄関から正面に見える、レースカーテンに覆われたベランダのガラス越しの夕陽が、こげ茶のフローリングを寂しげに染めていた。
貴央は部屋の中の冷えた空気を吸い込み、靴を脱いだ。

Tシャツとジーパンに手早く着替えると、鍋とフライパンをシンクの開きから出してマカロニを茹で、玉ねぎと鳥のささ身を炒め始める。
菜箸を操りながら、貴央は数十分前の出来事を思い出していた。
今まで幽霊というくくりのものと、あれだけ自然に、というか、人間らしく会話が成立したことがあっただろうか。貴央はさっきからそれが甚だ疑問だった。
そもそも生身の人間だったとしても、初対面の相手とあんなにぺらぺら話せるものなのだろうか。そういう方面に長けている人間は五万といるが、生憎と貴央の不得意分野であった。
警戒心はあった。しかしそれは幽霊相手だからだとか、初対面だからだとか、そういった類のものではない気がしていた。もっと別の、単に胡散臭いからとか、単純な。

何故携帯を出してしまったんだろう。
何故名前まで聞いてしまったんだろう。

それら一連の動作がまるで当たり前のように思えて、何の躊躇もなく実行していた自分が気味悪く思えた。
幽霊に関わるなんて百害あって一理なしだと、身をもって知っているのに。

ぱちんと手元で油の弾ける音がした。そろそろ塩コショウを振って火を止めないと焦げてしまう。貴央は思索にふけるのを中断し、料理に集中した。





翌朝、育ち盛りの体にはあまりにも適当なコーヒーとトーストだけの朝食を済ませた後、手早く身支度をして制服を身につけ、冷凍庫から冷凍食品を引っ張り出したり卵焼きを焼いたりと慌しく動いて弁当を仕上げ、膨れ上がった燃えるごみのごみ袋を軽々と持って貴央はマンションを出た。
朝だけでやることは山とあるが、慣れてしまえばどうということもない。実は大して丁寧にやっていないのでそこまで時間も負担もかからなかった。
指定の場所にごみを出し、高校までの通学路をたらたらと歩く。大半の生徒が電車やバス、自転車を利用する高校には珍しく、貴央は徒歩で通学が可能な距離の場所に住んでいる。
途中に小さな公園がある。当然だが、朝なので遊んでいる子供はいない。
ちらりとブランコの方へ何気なく視線をやると、右側のブランコに、肩までの長い髪を垂らした小学生くらいの女の子が俯いて座っていた。もう大分涼しくなっているというのに、女の子は薄手のノースリーブの白いワンピース一枚という出で立ちだった。
貴央が歩きながらしばらくそちらを見ていると、女の子が視線に気づいて顔をのろのろと上げた。落ち窪んだ暗い瞳が、貴央を見つけると何かを訴えるように大きくなったり小さくなったりしている。半開きの唇が、何か言いたげにぱくぱくと動いていた。
そのままブランコから降りようとしたので、貴央はにべもなく顔を真正面に戻した。視界の端で、女の子が力なくブランコに座りなおす姿が見えた。

そうだ、幽霊なんて皆あんなじゃないか。
ああいうのが普通なんだ。

貴央は自分に言い聞かせていた。
いくら現世に残っていると言えど、一度死んでしまった者と今を生きている者の間には越えがたい壁があるのだ。容易にコミュニケーションなんて取れる方がおかしい。
変に気になるのはきっとそのせいだ。珍しいものが印象に残るのは道理である。
貴央は朝の澄んだ空気を鼻から吸い込んで、歩幅を広げた。
今日も快晴。風は少しあるが、きっとまた美しい夕焼けが見られるだろう。











「いるよ……」

貴央はがっくりと肩を落とした。
昨日と同じ時間帯、同じ坂、同じ位置。そこに閻魔は待っていた。何がそんなに嬉しいのか、満面の笑みで大きく手を振っている。
貴央は後ろを振り返った。楽しそうにお喋りをしながら歩いているジャージ姿の中学生の女の子が二人。重苦しい溜息を吐いて、ポケットから携帯を出して耳に押し付けた。
その様子を見て、閻魔がすう、と空気を泳いで隣にやってきた。
「面倒くさくない?それ」
「そう思うなら話しかけるなよ」
「無視すればいいじゃん」
「アンタを無視するのは至難の業だって昨日思い知った」
それを聞いて、閻魔は高らかに笑った。
「短気だもんねぇ」
「ああそうだよ悪いか。……って、昨日会ったばっかじゃねーか。何知ったような口聞いてんだよ」
貴央に不機嫌そうに睨まれると、閻魔は一瞬口をつぐんだ。小さな失敗を犯してしまったようなその表情に貴央は一抹の疑問を抱いたが、すぐに思いついて口を開く。
「まさか、ずっと前からストーキングしてたのか」
「ううん」
閻魔が首を振っても、貴央は胡散臭そうに見るのをやめない。
「先祖じゃないなら何なんだよ。俺に何か恨みでもあるわけ?」
「だから昨日も言ったじゃん、そんなのないってば」
「……まぁそうだろうな。アンタみたいにバカ明るいのは見たことねぇ。恨みつらみどころか悩みもなさそう」
「ひ、酷い。悩みくらいあるよ。貴央君の言い方がすごく遠慮がないこととか」
「幽霊に気遣ってどうすんだ。日がな一日ふよふよ浮いて過ごしてりゃいいお前らと一緒にすんなよ」
そこまで言って、貴央は空いている片方の手で口を軽く押さえた。きまり悪そうに閻魔と逆側の灰色のブロック塀を睨むと、小さく「ごめん」と呟いた。閻魔が首を傾げる。
「どうしたの」
「いや。アンタだって、好き好んで成仏してないわけじゃないんだし。その、無神経だった」

突然しおらしくなった彼の姿に、閻魔は悪いと思いつつも口を押さえて噴出してしまった。当然貴央が眉を吊り上げて口をくわっと開ける。
「人が真面目に謝ってんのに何なんだよ!」
「いや、ごめん、悪かった。いきなり優しい一面見て、動揺しちゃった」
優しいと言われ、貴央は居心地悪そうに肩をすくめて黙ってしまった。代わりに閻魔が尋ねる。
「昔からいっぱい見えてたの?」
「年齢重ねるたびに見える量は減ってったけどな。ガキの穢れ無き心の方が良く見えるんだろうよ」
皮肉たっぷりにそう言う貴央に、閻魔は苦笑する。
「ねえ貴央君、もっとゆっくり歩いてよ。あんまり話が出来ない」
そう注文すると、貴央は無言で歩みを速めた。閻魔が慌てて後を追う。その顔は笑っていた。
「ちょっと、どうしてそう意地悪なわけ?!こっちは引っ張って引き止めるとか出来ないんだからさ」
「触れねーのは俺だって同じだっつの」
閻魔はそのまま手を貴央の肩へ伸ばした。案の定すり抜けてしまい、手の中に何かを掴んだ感触は無い。閻魔は少し目を細めて、そっとその手を下ろした。

「大変だった?」
貴央の歩く速度が落ちた。
「そりゃな」
閻魔は貴央の、短めに切られた金の髪と黒い詰襟の間から僅かに見える首筋を後ろから眺めながら、その向こうの夕陽の光を味わった。
「ま、今じゃ大分慣れたけど」
どこか諦めたようにそう言う貴央に、閻魔は悟られないように憐れみの視線を向けた。今日はスーパーの袋は持っておらず、制服の袖から覗く浅黒い手首から下は、ブランコのように前後を行ったりきたりしている。どこか手持ち無沙汰のように見えた。閻魔はしばらくそれを無言で見ていたが、自分でも気づかぬうちに口を開いていた。
「貴央君、手を見せて」
貴央が立ち止まって振り返った。意図がわからないようで、眉を寄せて疑問符を飛ばしている。
「いや、別に深い意味は無いんだけど、ちょっと見たいだけ。駄目かな」
困ったような顔をして腰低く頼んでくる妙な幽霊に不審そうな視線を送ったが、別に減るものでもないので貴央はやがて承諾した。
「いいけど、携帯持ってる方の手にしてよ。何にも持ってないのに手だけ上げてたら、変な人だと思われるだろ」
どんなに些細なことだろうが、気を抜くということを知らない。彼の視点は内側でなく、常に外側なのだ。
聡明な子供だ。
閻魔はふとそう思った。

貴央の右側に移動し、携帯に添えられた指先を見つめる。褐色、とまではいかないことが、近くで見るとよくわかる。当然だ、日本人で褐色の肌は基本的にはありえない。日焼けと元々の色黒が混ざり合ったどこか暖かさを感じる肌色に、閻魔の口から溜息が漏れそうになった。
指先の、きちんと切り揃えられた爪。世の女性が見たら嫉妬するような自然な桜色のそれは、肌と見事なコントラストを作っている。男性にしては珍しい楕円に近い指先は、今も記憶に鮮明に残っている彼の人の物と寸分の違いもなく一致した。
しかしそれはそのままで、変化することは決してない。瞬時に自由自在に伸び、この腕や頭蓋を貫くことは、未来永劫ない。
驚異的な治癒能力に加え、やろうと思えば痛覚すらコントロール出来るこの体に、彼は懲りずに眉を吊り上げながら攻撃をしてきた。
今初めて、触れることが出来ないということにやるせなさを感じた。
しかし実際触れたとしたらどうだ。見た目に反して手触りが違ったら、体温が違ったら?
それに幻滅するほど人間らしい感覚を持ち合わせてはいないが、知らなくてもいいことを知ってしまったような気持ちになるのは明白だった。これ以上色々思い出すことが果てしなく不毛であることも、十分すぎるほど理解している。
それでも、ずっと被せてきた蓋は少しずつずれ始めていて、それを止めようという発想が閻魔には起こらなかった。

一方、指先をじろじろと見たまま一言も口にしない閻魔の存在が不安になってきたらしく、貴央が昨日からずっと思っていることを口にした。

「なぁオッサン、アンタやっぱり俺のこと」
「貴央君、女爪」

うくく、と喉で笑う声を聞くと、貴央は携帯を素早く畳んで両手ごと乱暴にポケットに突っ込んでしまった。それを見た閻魔がここぞとばかりににやにやと笑う。
「綺麗な指だねって褒めたつもりだったんだけど、あれ、もしかして気にしてた?」
「別に」
至近距離にいる閻魔にだけかろうじて聞こえる低く不機嫌な声を聞き、閻魔は余計に笑ってしまった。携帯を納めてしまったので罵倒することは出来ないが、黙っていても黒々しいオーラが肩から立ち上っているのはよくわかった。
これ以上笑うと本当にへそを曲げてしまうと感じ、どうにか喉に笑いを納めると、上り坂が終わるところで進むのを止めた。しばらく気づかずに歩みを進めていた貴央は、右隣の気配が急に背後に移動したのを感じて振り返って足を止めた。
「また明日ね」
閻魔は坂の切れ目から動かずに、手を胸の辺りで控えめに振っている。夕陽の朱色のせいだろうか、少しだけ背景の透けて見えるその体が一層儚げに見えた。視界の奥にさっき確認した女の子二人がまだいることを知りながら、貴央は思わず疑問をもらしていた。

「もしかして、坂から動けない?」

閻魔は何も言わず、ただ曖昧な笑みを浮かべて貴央を見ていた。閻魔にしてみれば何の気なしに作った笑みだったのだが、貴央の胸を緩く締めるには十分な材料だった。
いたたまれなくなり、貴央は少しの間アスファルトに目線を落としていた。長く伸びた一人分の影が、今まで感じたことの無い感情を呼び起こす。

「また、明日」

口先で出され、上手く音にならなかったその短い言葉をアスファルトに落とすと、住宅に挟まれただだっ広く平坦な道路を歩いていった。
何故かどうしようもなく今後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、それを振り切るように貴央は歩幅を無理やりに広げた。
少しの間そうしているうちに、また明日も、今しがた見たものと同じ風景を見ることが出来ることに気づいた。互いに交わしたあの短い一言に、それは集約されているようだった。
貴央の歩幅は、また元のように狭くなり、急に軽くなった足取りに少しだけ驚いていた。





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