「はい、あなたは天国。いってらっしゃい」 少しよれた着物を身に着けた老婆が恭しく頭を下げ、天国の階段を上っていくのを見届けると、閻魔は一つ溜息をつき、筆を取ってさらさらと書き留めた。 「午前中はこれだけ?」 左に控えている泰山府君に尋ねると、長い黒髪の美しい青年は微笑んで頷いた。 「ええ、お疲れ様でした。今お茶をお持ちします」 給湯室に消えようとする泰山を、閻魔は左手を軽く上げて制した。 「待って、お茶はいいから、ちょっと」 そう言って手招きをされ、泰山は首を傾げながら閻魔の横に戻った。 「いかんねぇ……下に行くとどうも甘くなる」 苦笑しながら帽子を外して後ろ髪を弄る主君を、泰山は訝しげに見つめた。 「大王、何のお話でしょうか」 「いやいや独り言。……ちょっと調べ物頼みたいんだけど、いい?」 そう言って閻魔が手渡した紙には、一人の男の名前と没年が書かれていた。 「例の資料です」 しばらくして、数枚の紙を手に戻ってきた泰山に、閻魔は「ご苦労様」と礼を言った。丁寧に手渡されたそれをざっと見る。 「その者に何か問題でもございましたか」 「いいや」 名前、生没年、家族構成、経歴、死亡原因等々が、顔写真と共につらつらと載っていた。胸までが写されているその写真には、浅黒い肌をした肩幅の広い男が静かに納まっていた。 資料の一番下の欄の審判結果を見て、閻魔の口角が上がる。 「人間としばらく一緒にいると、どうにも自分が人間臭くなって駄目だね」 それを聞くと、泰山は端正な顔で渋面を作った。 「いつまで下におられるおつもりですか」 「もうちょっと」 いたずらっぽく言うと、泰山の表情はますます険しくなった。構わず閻魔は語りだす。 「人間がどんな死に方しようと、俺はここで淡々と裁くだけ。その一人一人にどんなドラマがあろうが知ったことではない。だから俺にとって死は全くもって平等だ。所詮他人事だし」 そうでもしないとやってらんないしぃ、と語尾を延ばして、体も伸ばす。泰山は特に口を出さず静かに聞いていた。そんな事は死を司る者としては至極当然の理論であるからだ。 不意に閻魔がどこか寂しそうな笑顔を浮かべて泰山を見る。 「と、思ってたのにさ。あの子と一緒にいて話を聞いてると、笑顔を見たいばっかりにらしくもないことを色々してしまう」 泰山はおもむろに閻魔の手の中の資料を見た。 「その方は……」 「うん、そうだよ」 泰山は、憐れみとも上手く言い難い、複雑な表情でそれを見ていた。閻魔は長く節くれだった自身の指を組んで、そこに顎を乗せた。黒く塗られた長めの爪が艶を放っている。 「お会いになればよろしいのに」 しらっとした顔をしてそう告げると、閻魔は緩く首を振った。 「思ってもいないことを言うもんじゃないよ、泰山」 面白そうに笑うと、泰山もつられて苦笑した。会ったところで仕方がない。それは二人ともわかりきった結論だった。 紙の上に載った文字の羅列であるそれを眺めながら閻魔が呟く。 「もし会えるなら、一言だけ伝えたい」 筆を取ってまっさらな半紙を取り出すと、一画一画を丁寧に、筆を運んでいく。出来上がって一つ頷くと、それを泰山に渡した。 「あの子に素敵な名前をありがとうって」 少し細いが、非常に整った美しい楷書で書かれたそれを見て、泰山は感慨深げに零した。 「キオ、と読むのですか」 「うん」 「素敵な名ですね」 「俺の呪いだけどね」 もし契約を解いていたとしたら、彼は一体どんな名前を与えられたのだろうか。赤ん坊の貴央を抱いた、写真よりも幾分若いその男の姿を、閻魔は思い浮かべた。 「こんな美しい名前を作り出したのなら、貴方の呪いも悪いことばかりではないのでしょう」 せり上がってきそうだった自責の念が、泰山の一言によって一瞬にして押し戻された。閻魔はどこか嬉しそうに笑った。 「どーも」 翌日、閻魔はいつものように夕方に坂に現れた。今日は久しぶりに雲が厚く、いつもより辺りが少し薄暗く感じた。 「オッサン」 坂で待っていた閻魔に気づいて、携帯を出しながら貴央は駆け寄った。閻魔も貴央に気づいて笑顔を見せると、ひょいと軽々浮かび上がって貴央の右肩の辺りにポジションを取った。 「昨日はどうしたんだよ、突然消えちゃってさ。霊に急用なんてないだろ」 「失礼な、ありますよ」 「じゃあ何だよ」 「秘密ー」 うひひ、と小憎たらしい笑いを貴央にぶつけ、閻魔は気ままに飛んでいる。面白くなさそうにそれを見ている貴央に、閻魔はさり気なさを装って言った。 「君のお父さんさ」 貴央が顔を上げる。灰色の空を見上げている閻魔の横顔は、慈愛に満ちているような穏やかさを湛えていた。こうして見ると、肌は少し白すぎるが、端正な顔立ちをしている。顎のラインなんか、繊細な印象で目に残る。しかしそれが彼の持つ果てのない儚さの一部になっているため、貴央は少し残念なようなもどかしいような気持ちでそれを見つめていた。 「多分天国にいるよ」 貴央が目を丸くする。 「昨日、一晩考えた結論」 「そんなことに一晩使っちゃったのかよ」 貴央が呆れながら笑った。それを見て閻魔も笑う。自分が笑うと、この男もまず笑う。貴央はふとそんなことを思った。 「多分じゃないな、絶対だよ、うん」 一人納得して頷いている閻魔を貴央が不審そうに見るが、まだその顔には笑みも混じっていた。 「何でそんなことわかるんだよ」 「だって、俺結構長いこと生きてるし、色んなとこも行ったけど、君のお父さん見たことないもん」 「俺、顔は母親似だから親父とは似てないよ。大体、生きてるって何だよ」 くっくと喉で笑いながら茶化す。閻魔も貴央も、どうしてだか、晴れやかで体が軽くなったような気分になっていた。いつもは硬くて好きじゃないアスファルトの感触が、今はスニーカーの底に滑らかに吸い付いては離れていく。 「それでも、そう思うんだ」 楽しそうに天に向かって伸びをしながら宣言すると、貴央はそれを眩しそうに見上げた。目を潰す光は、今日は雲に隠れているのに。 正直な話、急速に縮んでいく閻魔への距離が、貴央は怖かった。 彼の化けの皮が剥がれない保障がどこにある?かつての少年の霊のように豹変しないという絶対的な安全が。 長いこと霊をやってきているのなら尚のこと、この世界に、自分の存在に嫌気がさしているのではないか。 霊感の強い貴央の体を欲しがる霊は多い。その度付きまとわれ、酷ければ取り付かれ、死んでいく。すでに死んでいる霊に対して『死んでいく』という表現が正しいのかは疑問が残るが、とにもかくにもそんな経験をするのはもう御免なのだ。 大して情の通っていない霊相手なら、体内で死なれることにも慣れた。慣れざるを得なかった。気を許した相手に死なれたのは、今のところあの霊だけだった。 閻魔に、その二人目になって欲しくなかった。裏切られたくなかった。自分のせいで消えてしまうのはたくさんだった。 でもこいつなら、多分大丈夫な気がする。理由なんてないけれど。 いや、絶対だ。 「アンタがそう言うんなら、そうかもな」 弾けるような貴央の笑顔に、閻魔はその周囲に光が発生して零れ出すような錯覚を見た。体中の力が抜けそうな感覚に陥り、閻魔はびっくりした顔のまま奥歯を噛み締めた。一方貴央は閻魔の様子など露知らず、鞄を背負い直して肩を軽くほぐしていた。 「天国ってどんなとこなんだろうな。つーかあんのかね、そんな都合のいいとこ」 「あるよ。なかったら困っちゃうよ」 「何、オッサン成仏したらそっち行けると思ってんの」 「当たり前じゃん、こんな素晴らしい人材が地獄行きだなんて」 「自信過剰なオッサンだな」 「辛辣だなぁ……それにそんなオッサンオッサン言わないでよぅ」 「気持ち悪い。やめろその喋り方」 二人とも何がそんなに可笑しいのかお互いにわからないままだったが、心底会話を楽しみながら並んで歩いた。 まるでずっと昔から互いを知っていて、共に時を歩んできたかのように。 ずっとずっと、昔から。 |