「Who are you ?!」

「I am ...... DEATH !!」


「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ」




貴央は、テレビの液晶に向かって力いっぱい叫ぶ閻魔をうんざりした目で見ながら耳を塞いだ。実体のない幽霊の声帯から発せられたはずなのに、部屋全体の空気がびりびり振動している気がするような絶叫だった。
画面の中では、男が顔を隠していたフードを取り、そこから頭から血を流した頭蓋骨が現れ、そのままの勢いで美女に襲い掛かっていた。

「こういう時霊体って不便だよね、しがみつきたくても透けちゃうから」
早口でそう言いながら、閻魔はもどかしそうに、貴央の右腕の周りで手を握り締めたり開いたりと落ち着かない行動を繰り返している。感触などもちろんないのだが、どうにも鬱陶しく感じる貴央であった。
「こんなB級ホラーでぎゃーぎゃー言うなよ。大体自分自身ホラーの塊じゃねぇか」
呆れ返った調子で文句を言いながらも、その目は淡々と画面を追っている。貴央の適当な物言いに不満を抱きながらも、閻魔は心外そうに反論した。

「生前血が怖かったら霊になってもそのままでしょ普通。ねぇもういいじゃん、こんなの見るのやめようよ」
「見たくねぇなら出てけよ」
言葉はきついが、息混じりで全体的に湿った声は、厳しさを中和させている。
「貴央君だって、さっきからつまんなそうに見てるくせに」
「これでも真面目に見てんだよ」
「消して消して消して消して」

頭上できんきんと騒がれて耐えられなくなった貴央は、うんざりしながらリモコンをいじって停止してやった。途端に閻魔がにっこり笑って貴央の顔のすぐそばに寄ってくる。たっぷりした黒い着物の袖が生き物のようにはためいた。
「ありがとう、貴央君大好き」
「アンタと一緒じゃ落ち着いて見れやしねぇ」
甘ったるい声の冗談に突っ込む気にもなれず、貴央はDVDプレーヤーとテレビの電源を落とすと、台所に向かった。冷蔵庫の中身を確認して、貴央がしまった、と眉を寄せていた。卵が切れていることをすっかり忘れていた。
鞄から財布を抜き出してジーパンのポケットにねじ込み、玄関へ向かう。当然のごとく、閻魔が鼻歌を歌いながら後ろからついてきた。
「どこ行くの」
「卵買いに」
「お供します」
無駄に明るい笑顔をたたえている閻魔を見て、何がそんなに楽しいのか聞いてみたくなったが、長くなりそうなのであっさり諦めた。何かがお気に召したようで、『お供します』をさっきから何度も繰り返し口にしている。時々、貴央は閻魔が全くわからなくなって、かくりと肩を落とす。
部屋の電気を消し、鍵を閉め、二人はマンションを後にした。



「スーパーでは喋るなよ。携帯使うわけにいかねぇんだから」
「はーい」
間延びした声でそう答えつつ、閻魔は密かに嬉しさを抱いていた。結局のところ、彼は閻魔を無視できない。長年培ってきた幽霊への対処法を当てはめない程度には、信頼又は好意を抱かれているのだと思うと、自然と閻魔の口角は緩やかに上がる。
「このままうちに居着くなよ」
「わかってるよ」
ご機嫌でふわふわ浮いている閻魔を少しだけ見上げながら、貴央は思う。
必ず、定位置は右隣。
左から来ても、わざわざ貴央の右肩の方へ移動する。相手に対して決まった方を歩かないと落ち着かない、という人間はたまにいるが、彼もそうなのだろうか。貴央は前々から疑問だった。

「なぁ、それ癖?」

アスファルトの上で小石を蹴りながら唐突に尋ねてきた貴央に、閻魔は少し驚いて「何が?」と返した。
「必ず俺の右に来るじゃん」
閻魔がひるんだように口をつぐんだ。普通に見ていれば大した表情変化はなかったが、貴央はその僅かな顔の筋肉の動きを見逃さなかった。閻魔はすぐに真顔に戻り、はぐらかすように貴央から視線を外し、茜色の空を見上げた。今日は日中も綺麗に晴れていた。
「そうかも。ここ落ち着くんだよね」
「……ふーん」
曖昧に返事をして、それ以上の追求をやめた。どうせ口を開きはしないだろうと踏んでいたからだ。
携帯をポケットにしまって、足元から伸びる長い影を睨みながら、貴央は石を強く蹴った。石は真っ直ぐには飛ばず、見当違いの方向へ転がっていってしまった。それを疎ましげに見ていたら、急に耳に、スニーカーがアスファルトを擦る耳障りな音が聞こえてきた。




眩しい照明、陽気な音楽、魚と野菜と、人工的に冷やされた空気が一挙に眼球に、鼓膜に、鼻腔に侵入してくる。時間帯のせいか人が多く、主婦がカートを押しながら食材を選んでいる姿が多く見られた。
学ランで夕飯の買い物をするのにも慣れてしまったので、私服なら尚更どうということはない。初めは随分居心地の悪い思いをしたということを、貴央はふと思い出した。
買う物は一つなので、面倒だからと買い物カゴを取らずにそのまま卵の売り場へ向かった。もちろん迷いなどしない。赤いマーカーで広告の品と書かれたタグのついた一ダースのパックを手に取る。
「今日何にするの」
喋るなってさっき言ったばかりなのに。思い切り眉を寄せたが、珍しそうに商品棚や周りを見渡している閻魔を見て、貴央は短く溜息をついて携帯を出した。メモ帳機能を呼び出して手早く文字を打ち、さり気なく閻魔の方へ向けた。
『親子丼』
閻魔が画面を覗き込むと、ぴゅうと口笛を吹いた。手を背に持っていって指を組み、少し目を細めて、並んだ卵のパックを眺めている。

「すごいね、そんなの作れるなんて。いいなぁ、俺も貴央君の手料理が食べたい」

社交辞令ではない、本気を内包したその言葉が、貴央はどうにも引っかかった。
なんという、慈しむような声音なのだろうか。
話を聞く限りでは、相当の年月をその体のままで過ごしているらしい。ならば食に対する欲求などとうに薄れているはずなのに、実体のない自身の口や胃を心底歯がゆく思っているように見えてしまう。
そんな顔をされてしまっては、彼の前で夕飯の買い物をしている自分が何かとても悪いことをしているような気になってきた。そして、彼に料理を振舞ってやれないことがひどく残念に思えてきた。
閻魔を見ながら頭ではそんなことを考えて黙り込んでいると、睨まれたと勘違いした閻魔がすまなさそうに身を縮めて人差し指を口元に持っていった。

「ごめんって、独り言だよ。怒らないで」




白いビニール袋に入った卵を手からぷらぷらと下げながら、元来た道を引き返していく。陽が落ちそうでまだまだ落ちない、夜と昼の入り混じったこの時間帯の景色が、貴央は好きだった。うねる雲が藍と朱に染まり、ピンク色も混じった空の中を、白く細い飛行機雲が一本通っていた。
「この坂から見ると、夕焼けが余計に綺麗に見える気がしない?」
やはり右側に浮かんでいる閻魔が、夕日の色に染まった唇でそう言った。貴央はこっくりと頷くと、景色に夢中な閻魔の横顔を見上げながら思考を繰り広げていた。

何故この坂にいつも現れるのか。
何故夕方にばかり現れるのか。
何故、俺に狙いを定めたのか。

この三つの問いが最近閻魔と顔を合わせるたびに貴央の頭を巡っていたのだが、恐らくそのどれも満足のいく返答をもらえないのだろうと予想し、貴央は口を閉ざしていた。
そしてもし聞いてしまえば、どうしたものかと困った顔をされるのが目に見えていたので、好き好んでそんな顔をさせたくはなかった。
それでも喉元に残るしこり。どうにもそれが気持ちが悪く、紛らすように貴央は喉を鳴らして口の中の空気と唾を飲み下した。

「夕方って色んな呼び名があってね、逢魔時とか言ったりもするんだよ」

唐突な閻魔の言葉に、貴央は急に現実に引きずられたように目を見開いた。
「おーまがとき?」
「魔に逢う時って書くんだよ。この時間帯が一番色々出やすいんだってさ」
閻魔が顔の前で漢字を指で書いている。貴央は胡散臭そうに閻魔を見上げた。
「うわ、まさにアンタじゃん」
「失礼な。俺そんな邪悪じゃないよ」
両手に腰を当てて憤慨を表した後、ふっと真顔に戻って視線を上空にやると、何かを思い出したように付け加えた。
「あと黄昏とも言うよね」
「あ、それなら知ってる」
「じゃあ由来は?」
間髪入れずに問われ、貴央は言葉に詰まった。
「知るかよそんなん」
ふい、と顔を地面に向けて、いくらかむっとしてしまった貴央を尻目に、閻魔は無表情なのか笑っているのか判断のしづらい曖昧な笑みを浮かべながら答え始めた。
「暗くなると、人の顔が見えづらくなるだろう?だから昔の人は夕方になると『誰そ彼』って声をかけたんだって」
「何それ、どういう意味?」
口頭だとイメージが沸かず、貴央は首を傾げてしまった。それを見て閻魔が苦笑する。
「そうか、文字にしなきゃわかんないよね。『たそ』の『た』は『誰か』の『誰』で、『かれ』はそのまんま『彼氏』の『彼』って書くんだよ」
字はわかったものの、貴央の顔はまだあまり腑に落ちていなさそうである。こんがらがってきている貴央に気づいてまた笑うと、閻魔は「つまり」と繋げた。

「『あなたは誰』って意味」
貴央が足を止めた。急には止まれなかったスーパーの袋が、手の下でぶらぶらと動いている。おもむろに顔を上げて閻魔を見上げると、うっすらと開いた睫毛の間からのぞく赤い瞳が、弱々しく笑っていた。一房だけ飛び出した前髪が、オレンジに染まった剥き出しの額に影を落としている。

「君は、誰?」


アンタこそ誰なんだ


冷静に聞けば意味不明なその言葉に、貴央は口を真一文字に結んだままそう問い返した。風がどこからともなく吹いてきて、短い前髪を暴れさせる。貴央は忌々しげに片目を閉じた。
彼は『誰』で、自分は彼にとっての『誰』なのか。
時に見せる仕草、言動、表情から、貴央は閻魔が自分を通して誰か別の人間を見ていることに気がついていた。そうすれば、会ってから日の浅い自分に閻魔が執着するのも頷ける。
その時浮かんだその問いから、貴央は目をそらすことが出来なかった。自分は彼を知らないのに、彼はきっと自分を知っている。そんなアンフェアな状態に納得がいかないのと同時に、そのことを閻魔は貴央に言う気がないという彼の態度も許せないのである。

知ってんだよ、たまに俺のこと、誰かと重ねてるだろ

何度飲み込んだか知れないその台詞。その度に胸の奥底から湧き上がってくる得体の知れないもやを、貴央は持て余していた。
自分に向けられる笑顔やら言葉やら、何もかもが全て嘘のように思えて、たまに苛々が止まらなくなる。それは決まって閻魔と坂の上で別れ、平坦な道で一人になる時だった。
そして自分が何故そのことにこれほどまで苛立っているのかわからず、もやはさらに渦を巻く。悪循環である。
いつすぅっと消えてしまうかわからないような危なげな雰囲気を纏いながら、閻魔は黙って貴央を見つめていた。初めてこの坂であった時のように全身が橙に染まっていて、今に全ての色彩が抜けて夕暮れに溶けそうなほど、その輪郭は不安定に見えた。それなのに、その下に影が伸びていない事実が酷く不自然なように思えた。

「なんてね、変なこと言っちゃってごめん」

故意に笑った風である彼が、どこか空元気を出しているように見えた。いつものように坂の一番上で動きを止めた閻魔は、空中に胡坐をかいて軽く手を振った。
「じゃあね貴央君、また明日」
貴央は眼下の橙に染まった家々に挟まれた窮屈そうな道、そのさらに真ん中に佇む閻魔を振り返りながら、手を低い位置で上げて答えた。
「おう」
味も素っ気もなくそう言うと、いくらか早足で閻魔を残して歩き始めた。勢いのついてしまった卵が膝にぶつかりそうになる。
ふと顔を少し上げると、急に空の色の数が何色か減ってしまったような錯覚に陥った。その理由が何となくわかってしまい、貴央は戸惑いと苛立ちと否定のせめぎ合う胸を軽く押さえながら、さらに速度を上げた。卵を持っていなければ、きっと走っていた。
そして唐突に思い出す。携帯を出すのを、今の今まですっかり忘れていた。しかし辺りには誰もいなかった。



肩を怒らせて歩いていることに気づいていない貴央の後姿を、閻魔は可笑しそうに笑いながら眺めていた。
どんどん人間じみていく自身の半透明の体に、閻魔は徐々に危機感を抱き始めていた。
とっくの昔に『彼』を信じきり、故に貴央がどれほど『彼』とかけ離れていようが肯定することができ、何か反することがあったとしても、「裏切られた」と自分勝手に感じることなどないだろうと思っていた。
と、頭では理解しているのに、今でも必死に『彼』を探している。貴央が『彼』の存在を肯定するような仕草、言動、表情をすることを、どうしても期待してしまう。違うものになってしまっていると受け止めることを、恐れている。
冥界にいたならばそんなことは決して考えなかっただろう。やはり下の空気は体に悪い。吸い込むたびに少しずつ程度の低い生き物に成り下がり、同時に安心していく。

温度を感じないはずの少しだけ露出した手首と足首が、秋の宵の口の冷え始めの空気に身震いしていた。





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